■ポートフォリオとは?

保有している様々な種類の金融商品の組み合わせや資産構成のこと。預貯金や国内外の株式、債券など資産を組み合わせることで、分散投資によりリスクが軽減できる。 不動産投資した同志は有吉の他、高杉、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多(井上馨)、松島剛蔵、寺島、赤禰幹之丞(赤根武人)、山尾庸三、品川弥二郎の11名である。 同年、品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加する。 文久3年(1863年)、藩命により航海術を学び、その後京都学習院への出仕を命じられ、京洛での尊攘運動に邁進する。同年、八月十八日の政変により帰国後、久坂、堀真五郎らと山口にて八幡隊を結成する。 元治元年(1864年)の池田屋事件では、吉田稔麿ら同志と会合中に新選組に襲撃されるが、乱闘から長州藩邸に逃げ込み、事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。その際、事件により厳重警戒中の京都を飛脚に変装して出立している。同年、急進派の藩士らと上京、禁門の変(蛤御門の変)において重傷を負い、久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃する。享年23。 ワラントとして生まれた。はじめは吉次郎といった。吉田松陰・大村益次郎らに学ぶ。高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。1867年(慶応3年)12月、藩命でオランダへ留学した。帰国後、鉄道局に入局。 のちに井上勝らで工技生養成所を設立、多くの日本人技術者らを育て上げることになる。その翌年には、日本人のみの手で施工されたトンネル・鉄道の山岳トンネルとして初の逢坂山トンネル建設の総監督となり、京都〜大津間にて着工、2年を要して完成させた。その後も、数々の鉄道敷設に尽力した。1890年(明治23年)には鉄道庁部長となる。3年後国有化問題で退職し、晩年は長男新の住んでいた愛知県豊橋市に隠居し、そこで没した。 天保8年(1837年)、大野毛利家の家臣で郷校・弘道館の学頭を務めていた生田神助の次男として周防国熊毛郡大野村で生まれる。幼少から聡明で、妙円寺の勤王僧である月性の指導を受けた。安政5年(1858年)7月には吉田松陰の松下村塾に入り、松陰の教えを受けた。このため、安政の大獄が起こって松陰が老中・間部詮勝の暗殺を計画すると、その計画に賛同したために長州藩に捕らえられ、弘道館に監禁された。 くりっく365の安政6年(1859年)11月に許されて出獄し、藩校・明倫館に入学したが、5ヵ月後に眼病にかかって失明し、その後は闘病生活を続けながら文久元年(1861年)11月12日に死去した。享年25。 明治21年(1888年)に靖国神社に合祀され、大正13年(1924年)に従五位を贈られている。 外為に生まれ、萩の明倫館に学ぶ。文久2年(1862年)長州藩正規軍先鋒隊に入隊 。文久3年(1863年)に起こった幕府使節団暗殺事件の首魁とされる。元治元年(1864年)御楯隊に入隊する。同年の禁門の変では戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継ぎ遊撃隊の長州帰還の指揮を執り後に総督となる。慶応元年(1865年)高杉晋作の功山寺挙兵の際には遊撃隊を率いて参加した。第二次長州征伐では芸州口を担当し活躍した。慶応3年(1867年)トーマス・ブレーク・グラバーの協力の下、イギリスにわたり工部少輔、駐英公使として明治4年(1871年)まで滞在する。帰国後、侍従長に就任するも明治6年(1873年)イタリア、オーストリアに赴任。明治16年(1883年)司法大輔。明治17年(1884年)よりイギリス在住。明治36年(1903年)枢密院顧問官。 1847年、長州藩士飯田平太の子として生まれる。 1857年9月、松下村塾に入門、塾生の中では最年少であった。 1859年5月24日、松蔭より留別の字を送られ、『送別詩歌集』に名を載せられた。 1863年、山口の普門寺・観音堂で蘭学塾を開いていた大村益次郎に学ぶ。 同年、奇兵隊で滝弥太郎と二中隊を引率して豊前田ノ浦へ渡海、砲台を設営する。8月に単独攘夷の詰問使を載せた朝陽丸が抑留されたとき、吉田栄太郎らと共に朝陽丸の乗組員として派遣された。 1864年、奇兵隊に正式に入隊。 1867年、藩命でオランダの工科大学へ留学。 1873年、帰国し、工部省に入省。工部省七等出仕に任じられた。 1874年2月、鉄道権助となり、大阪〜神戸間の鉄道建設に従事。このころ、俊徳と改名した。 (同年、大阪〜神戸間の鉄道が完成。) 1877年、井上勝らと共に工技生養成所を大阪停車場(現在の大阪駅)構内にて設立し、数学・物理学・土木工学などを教え、多くの技術者を育て上げた。 1878年、井上勝の下で逢坂山トンネルを着工、このとき総監督を勤めた。 1880年、逢坂山トンネル完成。 同年、「工部権大技長」となり、敦賀線・関ヶ原線・尾張線・武豊線の工事を担当する。 1886年、東海道本線の天竜川以西の鉄道建設に従事。 1890年、鉄道庁部長(第一部)となった。 1893年、国有化問題で、井上勝らと共に退官。 1923年、没、享年77。正四位。 外為の養子となり野村弥吉(のむらやきち)と称するが、後に井上家に復籍し井上勝を名乗る。幕末期の1863年(文久3年)に萩藩を脱藩。後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれる後述の4人とともに藩命により2004年現在の価値にして約5億円の費用で英国に密航し、130日の航海の後到着した時の様子は飢えたカラスのような状況であったと記録されている。1868年(明治元年)までロンドンに留学。ユニバーシティー・カレッジ・オブ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ。帰国後は政府に出仕し、その新知識と技術を生かして新橋駅(品川駅) - 横浜駅間の鉄道開通を始め、東海道線や日本鉄道会社(東京〜青森間)など数々の鉄道工事で陣頭指揮にあたり、海外の力に頼らない日本の鉄道事業の基礎を作った。日本の鉄道事業は井上勝の後、原敬・後藤新平に引き継がれる。[1] 早くから鉄道国有化の必要を唱え、鉄道局長時代の1881年に工部卿佐々木高行に対して民営鉄道の利益優先主義と競合は日本の鉄道の発展に却ってマイナスとなるとする「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」を提出する。次いで1891年(明治24年)、鉄道庁長官として「鉄道政略に関する議」を内務大臣品川弥二郎を通じて政府に提出し、この中で幹線鉄道を国有化すべきとする主張は後の鉄道敷設法(1892年、明治25年)を生み鉄道国有法(1906年、明治39年)につながる。だが、その第一歩である鉄道敷設法では、民営鉄道に利権を持つ帝国議会(両院ともに鉄道会社の株主が多数議員として参加していた)が抵抗した。特に当時の経済学の権威とされた田口卯吉(彼も両毛鉄道の社長であった)は民営鉄道こそが日本の鉄道発展を促すとする主張を展開して井上と真っ向から対立した。その結果成立した鉄道敷設法は井上の理念とは逆に実際の条文内容は民営鉄道促進の余地を広げるもの修正されることとなってしまった。これに憤った井上は1893年に鉄道庁長官を退官することとなった。 小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、後に文助・素太郎と言い、慶応3年(1867年)9月、楫取素彦と改めた。諱は希哲、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等。 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、次の妹を再び妻にしたのである。 文政12年(1829年)3月15日萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)で、その家は世々儒官であった。弘化元年(1844年)明倫館に入り、同4年(1847年)19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受ける。 安政2年(1855年)4月明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年(1856年)2月相模出衛を命ぜられ、同4年(1857年)4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業はようやく盛んになり、翌5年(1858年)11月松下村塾閉鎖まで、小田村は直接関係はなかったが、松陰の信頼厚く、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め相敬愛するところは二人の交わりの特色である。松陰投獄後塾生指導の任に当たり、国事に忙しくなり、塾の世話ができなくなったが、明治以後杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。 万延元年(1860年)山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年(1861年)以後は専ら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年(1864年)12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶応元年(1865年)出獄する。5月には藩命により当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの7人から錦小路頼徳と澤宣嘉を除いた5人)を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸備後介(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年(1867年)冬長州藩兵上京の命を受け諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、遂に鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至った。 維新後いったん帰国して藩に出仕、明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定され、高崎から楫取は反発を受けた。また「明治の三老農」の一人船津伝次平に駒場農学校へ奉職するよう勧めている。 1884年元老院議官に転任。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年(1887年)男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。