■ファンドマネジャー とは?

投資信託会社や投資顧問会社などで、ファンドの運用を行う専門家。運用方針を決定し、株式や債券などファンドに組み入れる銘柄指示などを行う。ファンドマネジャーの技量は運用成績に大きく影響する。 外国為替の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者に働き掛けを開始する。これも大村の計画によるものであった。9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。この年、大蔵大丞井上馨の養女、湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚。 明治4年1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる(実際には8月まで募兵は続いている)。これは徴兵の質及び、指導士官や施設の不足等の根本的な問題の為だった。7月、陸軍少将に任ぜられ、兵部大丞を解かれ兵部省付きとなるが、その理由は不透明。同年10月、右大臣岩倉具視欧米使節団に兵部省理事官として随行。サンフランシスコ、ソールトレーク、シカゴを経由し、ワシントンに到着。明治5年2月(1872年3月)、兵部省一行(原田一道・富永冬樹・岩下長十郎・松村文亮)とともに岩倉らと別れ、フィラデルフィアの海軍施設等を見学後、渡仏。パリを中心に、ベルリン、オランダ、ベルギー、ローザンヌ、ブルガリア、ロシア等欧州各国で軍制を調査。欧州ではフランスに軍事留学生の渡正元、太田徳三郎がそれぞれ協力した。山田の欧州での活動についての全貌は詳らかではない。ウィーンの万博にも立ち寄り、明治6年5月、マルセイユ港から帰途に着く。 FX、帰国。9月、「兵は凶器なり」と指摘した上申書(理事官功程)提出、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた。7月、東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ清国特命全権公使に任命される。山田本人に渡清の意思はなく、木戸孝允も大久保利通に対して同職の解任の働き掛けをしている。しかし、清国駐在に至る前の明治7年2月、佐賀の乱勃発し、同職を解かれ、乱鎮圧のため九州出張。乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱鎮圧の戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔に就任。帰国以来、山縣有朋と徴兵令施行等の意見衝突によって対立していた山田は陸軍少将の肩書きのみで陸軍に実質的な地位はなく、政府内で微妙な立場にあった為、方向転換せざるをえなかった。 明治8年9月、刑法編纂委員長に就任。 明治9年7月頃には、後に洋館を建てる文京区音羽の土地は購入していたらしい。(山田邸は東京大空襲で焼失し、現在は講談社が建っている) 明治10年3月、西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。 明治11年2月、刑法草案審査委員として法典編纂に従事。同年11月、陸軍中将に任ぜられる。 FX、長男金吉誕生。9月、参議兼工部卿に任ぜられる。11月、工部大学校第一回卒業式で卒業生一人一人に証書を手渡す。 明治13年2月、専任参議に任ぜられる。3月、長男金吉死亡。6月、憲法意見書を提出。 明治14年8、9月頃、独自の憲法草案である「憲法私案」を左大臣有栖川宮に呈し、さらに改定したものを右大臣岩倉具視に呈す。同年10月、参議兼内務卿に就任。 明治16年4月、東京府知事芳川顕正に対し、衛生上の理由から、東京府においても下水道改良整備を示達。司法卿。同年12月、内務卿を辞任し、司法卿兼参議に就任。 明治17年、伯爵を受爵。 明治18年12月、内閣制度発足、第一次伊藤博文内閣の司法大臣(初代)に就任。以後、第一次松方正義内閣まで同職を務める。 明治20年、大日本私立衛生会会頭に就任。同年10月、法律取調委員長に就任し、民法・商法・訴訟法の編纂事業に貢献。 明治21年4月、黒田清隆内閣の司法大臣に就任。12月、民法典、商法典の各法案を黒田清隆総理大臣及び内閣に提出(明治23年4月、民法中の財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編、民事訴訟が公布。同年10月、民法人事編・財産取得編中贈与・遺贈・夫婦・財産契約が公布。しかし、「民法出デテ、忠孝亡ブ」との法典論争が巻き起こり、施行が延期される)。 FXに立つ山田顕義胸像明治22年1月、皇典講究所所長に就任。同年10月4日、同所内夜間に日本法律学校(日本大学の前身)を創設。同年12月、第一次山縣有朋内閣の司法大臣就任。 明治23年、皇典講究所内に國學院(現・國學院大學)創設。同年12月、商法施行延期の責任をとって司法大臣を辞任。 明治24年2月、司法大臣に復職。同年5月、第一次松方正義内閣の司法大臣に就任。6月、病気療養を理由に司法大臣を辞任。実情は大津事件で犯人を死刑に処せとの明治天皇の指示に副えなかった責任をとっての辞任であった。以後、翌年まで三崎の別荘などで療養と謹慎の生活を送る。 明治25年1月、枢密顧問官に就任。同年11月、但馬・生野銀山(兵庫県朝来郡生野町)を視察中に突然卒倒し、そのまま立てずに死去(一応死因は脳溢血と見られているが、日本大学の研究によれば、頭蓋骨の形状などから、突き落とされたのではないかとの見解も強い)。享年49。正二位。勲一等旭日桐花大綬章。法名は顕忠院殿釈義宣空斎大居士。葬儀は母鶴子により仏葬で営まれたが、本人は生前から神葬を希望していた。それを汲んでか、皇典講究所の有志によって「皇典講究所葬」として神式の葬送も行われた。よって長男の夭折後、甥の久雄が選定相続人となって伯爵位を継ぐが若くして死亡。これにより、久雄の実父で山田の実弟である河上繁栄夫婦が再び山田家に戻って継承し、三代目伯爵となる。その後は山田の長女梅子(山田死亡当時6歳。龍子が養育)が成人後、会津松平家より、松平容保の三男松平英夫を婿取った。なお、薩摩治郎八の妻千代子は山田の孫娘にあたる。 墓所は東京都文京区大塚の護国寺(日本大学豊山高校所在地)にある。 昭和54年、日本大学が建学90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられた。園内には「山田顕義先生之像」などが設けられている。 曾孫にあたる顕喜は日本大学芸術学部映画学科で教授を務めている。 赤根武人と書かれることが多いが、正式には赤禰武人と書く。 略字で禰=根と思われており、小説、辞書などにも多くはそう書かれるが、略字ならば「赤祢」である。 周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、後に長州藩士浦家の家老・赤根雅平の養子となった。安政4年(1857年)には梅田雲浜の望南塾に入塾したが、安政の大獄に伴い師・梅田雲浜が逮捕されるに伴い帰郷する。 文久2年(1862年)12月には 高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに参加し、翌年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。しかし、元治元年(1864年)に第一次長州征伐後に藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を図ったことが同志に二重スパイとして疑われる契機となり、翌慶応元年(1865年)1月に出奔して上方へ赴いた。その後、幕府に捕縛されが、幕府大目付永井尚志や新撰組参謀伊東甲子太郎らの肝いりで11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。これも、赤根武人が更に疑われる原因となった。赤根武人は広島から長州に潜入し、生誕地である柱島を潜伏場所に選んでしまった。12月には長州藩士槇村半九郎に捕縛され、翌年1月、山口の鍔石で処刑された。享年29。 長州藩士、三好五右衛門の五男として生まれた。1863年、奇兵隊に入隊して参謀職を務めた。1868年の戊辰戦争では越後方面に進出して武功を挙げている。 明治維新後は新政府のもとで、1871年、陸軍大佐となり、東北鎮台司令長官、仙台鎮台司令長官、大坂鎮台司令長官を歴任。1877年の西南戦争では、征討第2旅団司令長官として出陣したが、敵に敗れて負傷している。1880年、陸軍中将となり、東部監軍部長、熊本鎮台司令官、東京鎮台司令官、第1師団長、監軍などを歴任し、1894年、予備役に編入された。さらに、枢密顧問官を1897年まで勤めた。1884年7月7日に子爵に叙せられる。1900年、60歳で死去。 なお相続に関して重臣は、放蕩の激しかった長男三好太郎を廃嫡し、太郎の嗣子三好東一に子爵家を相続させている。